父の葬儀は、静かな斎場で執り行われていた。焼香の列が途切れず、私は喪主として頭を下げ続けていた。胸の奥は空洞で、涙は枯れたはずなのに、ふいに息が詰まる。そんなとき、バッグの中でスマートフォンが震えた。
――姑。
着信は一度では終わらない。切っても切っても鳴る。画面には「着信 30件」の表示。私は参列者に気づかれないよう、控室の隅に移動したつもりだった。だが指先が震え、誤って「スピーカー通話」を押してしまった。
次の瞬間、会場に甲高い声が響き渡った。
「今日私は美容室って言ったでしょ!早く帰って愛犬の散歩行きなさい!あんた、葬式なんていつまでもやってないで――」
空気が凍った。線香の香りの中に、場違いな言葉が突き刺さる。親族の視線が一斉に私へ向き、私は顔から血の気が引いた。
「……す、すみません……」
慌てて音量を下げようとした瞬間、隣の席の義父が、ゆっくりと立ち上がった。手が震えている。肩が小刻みに揺れ、呼吸が浅い。
私は思わず囁いた。
「お義父さん、大丈夫ですか」
義父は答えなかった。いや、答えられないのではない。言葉が喉の奥で固まっているようだった。私の耳には、姑の声の裏に、もっと別のものが重なって聞こえた。
――命令。
――支配。
――長年、誰にも止められなかった圧。
姑はまだ続けていた。
「散歩は毎日って決まってるの!犬が可哀想でしょ!嫁のくせに役に立たないんだから、私の言う通り動きなさい!」
「……やめろ」
会場の誰もが息を止めた。発したのは、義父だった。
義父は一歩前へ出る。震えは止まらないのに、声だけは不思議なくらいまっすぐだった。
「今日は……父上の葬儀だ。お前の美容室でも、犬の散歩でもない」
スピーカーの向こうが一瞬静まり返った。すぐに姑が嘲るように笑う。
「なに?あなた、また変な正義感?寝てなさいよ。
私がいないと何もできないくせに」
その瞬間、義父の震えが増した。けれど、腰が折れそうになりながらも、義父は踏みとどまった。まるで、何かを決めた人の背中だった。
「……お前がいないと、何もできないんじゃない」
義父は唇を噛み、ゆっくりと言った。
「お前がいると、何も言えなくなるんだ。ずっとそうだった。家でも、外でも。俺も、息子も、嫁さんも」
私は喉が鳴った。周囲の親族が凍りついたまま、耳を澄ませているのが分かった。義父は続けた。
「だが今日だけは、黙れない。父上の前で、恥をさらすのは……もう終わりにする」
義父は私のスマートフォンをそっと受け取ると、受話器に向かって言った。
「犬の散歩が大事なら、自分でやれ。嫁さんは、今ここで父上を送っている。邪魔をするな」
姑が怒鳴り返そうとした。だが義父は、先に言葉を重ねた。
「それと……俺は、明日、弁護士に会う。お前の“命令”の記録は残っている。息子夫婦にしたことも、俺が全部説明する」
会場がざわめいた。姑の声が詰まるのが、スピーカー越しにも分かった。義父は最後に、震える手で通話を切った。
静寂が戻った。私は膝が笑いそうになりながら、義父を支えた。義父は小さく息を吐き、私にだけ聞こえる声で言った。
「……すまなかった。今まで、守れなかった」
私は首を振った。言葉が出ない。ただ、父の遺影の前で、私は初めて理解した。
葬儀でスピーカーに響いたのは、単なる非常識な怒鳴り声ではない。
長年、家族を縛ってきた“鎖の音”だったのだ。
そして義父の震えは、恐怖だけじゃない。
その鎖を断ち切る瞬間の、身体の震えだった。
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