深夜の路地裏は、雨上がりのアスファルトが鈍く光り、街灯の影が不自然に伸びていた。大学の講義を終え、友人と別れた神崎美岬は、少し遠回りして夜の街を歩いていた。二十一歳。千葉出身の控えめな大学生。文学を学び、穏やかな日常を愛する――誰が見ても、どこにでもいる「普通の女の子」だ。
ただし、その「普通」の裏に、誰も知らない一つの真実がある。
美岬の父は、国内最強の極道組織・国竜組の組長、神崎剛。
それは誇りであると同時に、彼 reminding ほど重い十字架でもあった。
その夜、美岬は偶然、路地の奥に控えめな看板を見つけた。
――「バーブナ」。
小さく灯る文字に、なぜか目を引かれた。疲れもあった。たまには一人で、ほんの一杯だけ飲んで帰ろう。そう思ったこと自体は、罪でも何でもない。だが、その気まぐれが、五分後に地獄を呼ぶことになる。
扉を押すと、店内は薄暗く、カウンターに数人の客がいた。落ち着いた雰囲気に見えたが、どこか空気が硬い。美岬は疲れのせいだと自分に言い聞かせ、席についた。
「いらっしゃい、お嬢さん。一人?」
脂っこい笑顔の男が近づいてくる。店長の長谷部だった。身なりは小綺麗だが、目だけが妙に濁っている。
「ウイスキーを一杯ください」
美岬は小さく言った。グラスが置かれ、琥珀色が揺れる。三十分ほどで、もう一杯だけ――そう考えた時、長谷部が伝票を差し出した。
「お会計、百万円ね」
一瞬、言葉が理解できなかった。
ウイスキー一杯で百万円。冗談としても悪質すぎる。美岬は顔色を失い、伝票を見つめた。
「あの……何かの間違いでは……」
「間違いじゃないよ。うちは高級バーなんだ。大学生が気軽に来るような店じゃない」
長谷部の声が、急に冷たくなる。周囲の客がくすくすと笑い始めた。笑い声は、薄暗い店内で粘つくように広がり、美岬の背筋を凍らせた。
――これは、ぼったくりだ。
しかし理解した瞬間、もう遅い。出入口は、いつの間にか“逃げ道”ではなくなっていた。
「払えません。そんな金額」
震える声でも、美岬は毅然と答えた。すると長谷部は舌打ちし、奥へ向かって怒鳴る。
「おい、牛島!コイツ払わねぇってよ!」
ドスン、ドスン、と床を叩く重い足音。
奥から現れたのは、二メートル近い巨体の男だった。筋肉の塊のような体、傷だらけの顔。目に宿るのは理性ではなく、支配の快感。美岬は本能で理解した。
――ヤクザだ。
「払えねぇ? じゃあ違う形で払ってもらうか」
牛島は美岬の肩を掴んだ。その力は容赦がなく、骨が軋むように痛む。
「や、やめてください……!」
「払えねぇなら体で払ってもらうぜ。若いんだ、価値あるだろう?」
長谷部が下品に笑い、客たちもそれに便乗する。助けはない。店の空気は密室の圧力で膨れ上がり、美岬の呼吸を奪っていく。
――父に頼らず、生きる。
美岬はずっとそう決めていた。中学の頃、「私は普通の女の子として生きたい」と告げた時、父は優しく微笑んでこう言ったのだ。
「好きに生きろ。お前の人生だ」
だから素性を隠し、大学で笑い、努力し、護身のために合気道も習った。弱い自分を変えたかった。だが今、目の前の現実は、努力だけでは押し返せない暴力の塊だった。
美岬は震える手でスマホを握りしめ、ある番号にかけた。
コールは一度。すぐにつながる。
「お父さん……助けて」
電話の向こうから返ってきたのは、静かな一言だった。
「場所は」
「西山町の、バーブナです」
「五分で行く。待ってろ」
切れた通話。美岬はゆっくり椅子に座り直し、目を閉じた。店内では、長谷部と牛島が勝ち誇ったように笑っている。
「親に電話したって無駄だぜ。百万なんてすぐ用意できねぇ」
「泣いてもダメ。お嬢ちゃんみたいな素朴な女の親なんて、せいぜいサラリーマンだろ」
侮辱の言葉が刺さる。美岬は唇を噛み、泣きそうになるのを堪えた。
――あと五分。
ただ、それだけを数えた。
牛島が再び腕を伸ばしてきた瞬間、美岬は合気道で学んだ動きで、反射的にその腕を払った。
「触らないでください」
声は震えていたが、目には確かな光が宿った。
「お、やるじゃねぇか」
牛島が面白がるように笑う。「だがな、そんな小手先――」
その時だった。
扉が開いたのは、音より先に“気配”だった。猛獣が現れる直前のように、店内の空気が一瞬で冷え切る。笑っていた客が言葉を失い、長谷部の顔から血の気が引いた。
先に入ってきたのはスーツ姿の男たち数名。靴音は揃い、視線は鋭い。
そして、最後に現れたのが――神崎剛だった。
六十代とは思えない引き締まった体。怒りを沈めた険しい表情。瞳には、誰も逆らえない絶対の圧がある。美岬の喉が詰まった。
「……お父さん」
その背中は、幼い頃から知っている。優しさと恐ろしさが同居する背中だ。
「美岬。怪我はないか」
剛の声は、普段と同じ穏やかさだった。美岬は涙声で頷く。
「うん……大丈夫」
剛は娘の肩に手を置き、静かに撫でた。そして、ゆっくり振り返る。視線が長谷部と牛島に落ちた瞬間、店内の温度がさらに下がった。
「その汚い手で、うちの娘に触れたのか」
穏やかな口調。だが、底知れない怒りが沈んでいる。
牛島は一瞬怯んだが、虚勢を張って前へ出た。
「なんだよジジイ。誰だよ。娘が百万円の借金作ったんだぞ。払えないなら――」
言い終える前だった。
鈍い音が、店内に響いた。
牛島の巨体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
誰も剛の動きを見ていない。ただ結果だけがある。床に倒れた牛島は鼻血を垂らし、喉の奥でうめき声を漏らした。
「動くな。次は骨を折る」
剛の声は、命令ではなく“事実の宣告”だった。牛島の本能が理解したのだ。この男には勝てない、と。
長谷部が震えながら後ずさる。客たちは息を呑み、スマホを握ったまま固まっている。剛は美岬の隣へ戻り、低く言った。
「逃げないと言ったな」
美岬は涙を拭き、長谷部を真っ直ぐ見た。もう声は震えていない。
「この人たちは、私だけじゃなく、何人も騙してきた。だから……終わらせてください」
剛は静かに頷いた。
「分かった。全部終わらせよう」
剛が名刺を一枚、長谷部の前に置く。
そこに刻まれた文字を見た瞬間、長谷部の顔が崩れ、腰が抜けた。
――国竜組 組長 神崎剛。
長谷部は土下座し、床に頭を擦りつけた。
「許してください……!」
だが剛は冷たく言った。
「まだ謝罪の時間じゃない」
部下が段ボール箱を運び込む。中には伝票、帳簿、被害者リスト、映像データ。店の隠しカメラは既に押さえられていた。
「被害者は少なくとも二百名以上。総額八千万円」
報告が落ちた瞬間、店内がざわめいた。美岬は父の隣で、しっかり立っていた。怖さは消えない。だが、怖さに飲み込まれなくなっていた。
やがて扉が開き、刑事たちが入ってくる。
「長谷部誠治、牛島太郎。詐欺および恐喝の容疑で任意同行を求める」
長谷部は泣き叫び、牛島は青ざめた顔で床を這うだけだった。手錠がはめられ、二人は連行されていく。店内で笑っていた者たちの中からも仲間が見つかり、次々と捕まった。
外に出ると、夜風が冷たかった。パトカーのサイレンが遠ざかる。剛は群衆に向け、はっきり告げる。
「撮影は自由だ。ただし、娘の顔は映すな」
その言葉だけで、周囲は従った。
“国内最強の組長”の力は暴力ではない。秩序を強制する、重い現実だった。
翌朝、ニュースは街を覆った。
「ぼったくりバー摘発」「体で払えと恐喝」「被害者二百名超」「国竜組が証拠提供」
美岬の顔はモザイクで守られていたが、コメント欄は燃え、店は社会的に消し飛んだ。
美岬はスマホを閉じ、窓の外を見た。
あの五分間で、自分は変わった。
「普通」でいたいと願いながら、必要な時に立ち向かう強さを持てると知った。
そして何より――父が現れ、店内が地獄と化したあの瞬間、悪は逃げ場を失い、正しい裁きへと落ちていった。
それは恐怖で始まった夜の物語であり、同時に、美岬が“逃げない”と決めた夜の証明でもあった。
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